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『勇者王ガオガイガーFINAL』2000-3年 米たにヨシトモ総監督作品

本稿は評論家氷川竜介氏のブログからつぎに引用する文章に触発されて書きました。ありがとうございます。長めですが引用します。

敵を根絶してしまうからには、根絶しなければならないだけの害悪が描かれているか、譲れない一線みたいなものを踏みにじり続けた、ということが必要なわけです。あるいは、こちら側が絶対弱者であるなら、それもレジスタンスとして理にかなうことになります。

しかし、ソール11遊星主はみんな格好つけてニヤニヤしているだけで、全然そんな大それた風には見えないんです。せめて父親の複製とかが許せない者として作動するのかと思ったら、これも格好だけで終わったみたいだし。

その上、出た結論が「複製テクノロジーに寄りかかって心根が弱くなってしまった人びと」ということなら、主人公サイドがそれを理解したのなら、どうして「暴力」が解決になるのでしょうか。

氷川竜介評論集: 勇者王ガオガイガーFINAL

氷川氏は『ガオガイガー』を勧善懲悪ものとみなしたうえで『FINAL』を低く評価しています。たしかにソール11遊星主は悪役としては悪に不足しています。これはバイオネットというショッカーめいた悪の組織と比べると明瞭です。バイオネットは世界の紛争地帯に武器を売る死の商人です。国際社会にあってこれ以上の悪はありません。だから第1巻は古典的な勧善懲悪ものといってよいでしょう。バイオネットにつづくかたちでソール11遊星主は登場します。後者は前者を超えた悪であることを期待させます。しかし遊星主は氷川氏の指摘するように善悪という軸ではあいまいな存在で悪のエスカレーションを期待する高揚感はははぐらかされてしまいます。

結論を急ぎましょう。まず第2巻以降の『FINAL』は勧善懲悪ものではありません。善悪でいえば悪はむしろガオガイガーの方にあります。凱のいう「勇気」とは「悪になってでも生存競争を勝ち抜く意志」といいかえられます。もし弱きをくじき強きをたすくことを悪とするなら悪にでもなろう、という「勇気」です。これは「仲間たちを救えなかった自分を勇者と認めてくれるのか」という凱のセリフに表せられています。つまり「弱きをくじいてでも勝ち抜く意志」に目覚めたということです。

第1巻を勧善懲悪ものとすれば第2巻以降は生存競争ものです。生存競争ものには善悪はありません。宗教的にいえば生存自体悪なのかもしれませんが。ガオガイガーの「勇気」とはキリスト教でいわれる原罪と同じこと、といっては勇み足でしょうか。
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